こんにちは、木村耕一です。
どれだけ努力しても、がんばっても、うまくいかない……。
そんな思いは、誰にでもあると思います。
『三国志』(吉川英治)を読んでいると、そんな思いを吹き飛ばしてくれるようなシーンが、いくつもあります。
たとえば、「泥魚」の章には……。
戦乱が続く中国。
玄徳(げんとく)を主人とし、関羽(かんう)、張飛(ちょうひ)らの豪傑が部下として、20年間も戦い続けているのに、敗北の連続。
今、また、曹操(そうそう)に完膚無きまで打ちのめされ、わずかな兵を連れて流浪していました。
まったく将来の希望を失った玄徳は、思わず弱音を吐きます。
「わしのような至らぬ人物を主人ともったために、皆に苦労ばかりかけ、申し訳がない……」
その時、関羽が語った言葉が、実に深いのです。
勝敗は兵家のつね。
人の成敗みな時ありです。
……時来たれば自ら開き、時を得なければいかにもがいてもだめです。
長い人生に処するには、得意な時にも得意におごらず、絶望の淵にのぞんでも滅失に墜ちいらず、
……そこに動ぜず溺(おぼ)れず、出所進退、悠々たることが、難しいのではございますまいか。
タネがあっても、水分、気温、日光などの条件(縁)がそろわなければ、芽が出てきません。
自分にとって、今が寒い冬のような季節ならば、やがて必ず春がきます。
種まきを続けていたならば、春がくれば、自然と芽を出すのです。
それを、「時来たれば自ら開き」と言っているのです。
反対に、大雪や悪天候が長く続いているときに、焦れば焦るほど、失意に暮れ、愚痴が出てきます。
そういう状態を、「時を得なければいかにもがいてもだめ」と言っているのです。
浮かんでおごらず、沈んで屈せず、逆境にあっても、順境にあっても、前向きに種まきを続けていくことが大切だと、関羽は言っているのです。
さらに関羽は、近くの川の、干上がった土を指さし、次のように語り始めます。
そこらの汀(なぎさ)に、泥にくるまれた蓑虫(みのむし)のようなものが無数に見えましょう。
虫でも藻草(もぐさ)でもありません。
泥魚(でい)という魚です。
この魚は天然によく処世を心得ていて、旱天(ひでり)がつづき、河水がひあがると、あのように頭から尾まで、すべて身を泥にくるんで、幾日でも転がったままでいる。
餌をあさる鳥にもついばまれず、水の干(ひ)た河床でもがき廻ることもありません。
……そして、自然に身の近くに、やがてしんしんと、水が誘いにくれば、たちまち泥の皮をはいで、ちろちろと泳ぎだすのです。
ひとたび泳ぎ出すときは、彼らの世界には俄然(がぜん)満々たる大江あり、雨水ありで、自由自在を極め、もはや窮することを知りません。
……実におもしろい魚ではありませんか。
泥魚と人生。
絶望のどん底におちても、決して弱気になったり、自殺したりせず、
「人生には、そういう時期があるものだ」
と、あきらかに見て、忍耐していく大切さを教えています。
『三国志』には、このように、人生の何たるかを考えさせる場面が多くあります。
それが、『三国志』ファンが多い理由ではないでしょうか。
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