こんにちは、木村耕一です。
考えても、考えても、いいアイディアが浮かばない時はありませんか。
行き詰まってしまい、どうやっても、目の前の壁を乗りこえられないことはありませんか。
そういう場合のヒントを、『三国志』(吉川英治)から探してみましょう。
孔明が蜀の大軍を率いて、魏へ攻め入ろうとしています。
ところが、魏が国境に築いた、小さな城の前で、思わぬ苦戦に陥りました。
孔明は、20日以上も猛攻撃をかけますが、びくともしません。
さすがの孔明も、行き詰まって、悶々としていました。
その時、側近の一人が、孔明に語りかけます。
「ちとお気をお晴らし遊ばしませ、あまりに拘泥(こうでい)するはよくありません」
「おお、何の感やあって、その言をなすのか」
「それがしの思うに、かかるときは、むしろ『離(り)』ということが大事ではないかと考えられます。ご執着から離れることです。
この大軍をようしつつ空しく一城に拘泥(こうでい)して心まで囚(とら)わるるこそ、まんまと敵の思うつぼに落ちているものではございますまいか」
「そうか、おお、離こそ……離こそ……大事だった」
これによって孔明は、心機一転、方針を大きくかえました。
なにも、魏へ攻め入る道は、ここだけではないのです。
目の前の城の前に一部隊をとどめて、孔明自身は、あえて大きく遠回りをして、山また山の間道をぬって魏へ進撃し、大きな勝利をあげたのです。
行き詰まった時は、
「拘泥しているのではないか」
「執着しているのではないか」
「囚われているのではないか」
と、いったん突き放して見てみることが大事なことを示しています。
私は、吉川英治の『三国志』が大好きです。
講談社の文庫本で8巻もありますが、何度、読みかえしても、引き込まれます。どこに、そのような魅力があるのか、これから少しずつ分析していきたいと思います。
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