黒澤明の映画『生きる』、親が末期ガンで苦しんでいるのに……



こんにちは、木村耕一です。


巨匠・黒澤明の『生きる』は、悲しい映画です。


幼い子供は、親に甘えます。悲しみをぶつけます。
親は、すべて受け入れ、一生懸命に育てます。
計り知れない恩を受けて成長したはずなのに、子供は、なぜ、親のことを忘れてしまうのでしょうか……。
そんなことを痛切に感じる映画が、『生きる』です。



渡辺勘治は市役所の課長である。
あと1カ月で30年間無欠勤の記録を作るはずだった。
しかし、胃の痛みに耐え切れず、仕事を休んで、病院へ行った。
よほど悪いに違いない。


医者は、「軽い胃潰瘍です」とウソをつくが、彼は、末期の胃ガンであることを知ってしまう。余命3、4カ月……。


茫然自失。何も手につかない。
外へ出ても、行き交う車の騒音が耳に入らないほどの衝撃だった。


こんな時、まず頼りとするのは家族であろう。
彼は、早くに妻と死に別れ、男手一つで子供を育ててきた。
その息子も、今や結婚し、同居している。


日が暮れても、息子は帰ってこなかった。
夫婦でレストランか映画にでも行っているらしい。
やがて息子夫婦は、楽しそうに語らいながら帰宅した。
しかし、家の中に、明かりがついていない。


「お父さん、留守なのかしら」
2人は不審に思いながら玄関の戸を開ける。


「うー、寒い。家の中も表も同じ寒さだわ。だから日本の家って、イヤね」


息子「表で楽しんできても、家に帰ると幻滅だな。もっと近代的な家が欲しいな」


「ねえ、私たち2人だけが住む家だったら4、50万もあれば建つんでしょう。お父さんの退職金を担保にして、何とかなんないかしら」


息子「おやじの退職金、6、70万にはなるね。あと、恩給が月に1万2、3千円ってとこかな。それに貯金も10万ぐらいあるはずだよ」


「でも、お父さん、“うん”って言うかしら」


息子「“うん”って言わなければ、別々に暮らそうって切りだすんだね。それがおやじにはいちばん効くよ。第一おやじだって、退職金や貯金まで墓の中まで持っていく気はないだろう」


「フフフ……」


2人は笑い合って、部屋の電灯をつけた。
すると、誰もいないはずの暗闇に、父親が、うずくまっているではないか。


「どうしたんです、お父さん」
息子は、驚いて声をかける。


彼は、しばらく黙っていたが、
「何でもない、何でもない……」
とつぶやきながら、部屋を出ていってしまう。


「用事があったら言やあいいのになあ。いい年して、ふてくされることないよ」
息子も面白くない。


「ねえ、イヤよ、そんな怖い顔。お父さんのことは、もうたくさん。お父さんはお父さん、私たちは私たち……」
嫁は息子に抱きつく。


寒々とした家の中で、ただ息子の帰りを待っていた父親。
自分の気持ちを分かってくれるのは、わが子のみ、とすがるような思いだったに違いない。
しかし、夫婦の喜びしか頭にない息子には、何も言えなかった。


1階の自室で、暗い心におびえる父。
2階の息子の部屋からはレコードが聞こえてくる。
明るいテンポの音楽が、より一層、彼の心を孤独にしていく。


亡き妻の写真を見つめていると、この20数年間の出来事が、次々と脳裏に浮かんでくる。


妻の葬儀の日、霊柩車をじっと見つめ、
「速く速く、お母ちゃんがいっちゃうよう」
と泣いていた幼い息子。
「この子に、寂しい思いをさせてはならない。この子のために生きよう」
と、深く心に刻んだこと……。
「子供なんて、一人前になってみろ、親の思うほど、親のことなんぞ考えてくれやしないよ。嫁でももらってみろ。煙ったがられるだけさ。だから、少しは年を取った時のことも考えて、今のうちにいい連れ合いをもらっとけって言うんだよ」
と、再婚を勧められても、断り続けたこと……。
野球の試合に出た息子を、観客席から、じっと見守っていた夏の日……。
病気で入院した息子を励ましたあの日……。
子は親を当て力とし、親は子を明かりとして苦難を乗り越えてきた日々……。


親として、子に恩を売る気持ちはないが、このむなしさを、どうすればいいのだろうか。


子供が熱を出しただけでも、親は自分のこと以上に心配する。
しかし、親が末期ガンでやせ細っているのに、子供は気づいてくれない。
心の中で父は、息子の名前を呼び続ける。
返事がなくても、呼ばずにおれない。
耐え切れず、布団にもぐり込んで泣くしかなかった。
(『親のこころ』より)



映画はここで、「25年間無欠勤」の表彰状を、アップで映し出し、
何のために生きてきたのか
と、無言で問いかけます。
昭和27年の、モノクロ作品ですが、鮮烈に胸に迫ってくるものがありました。



親のこころ

木村耕一編著

定価 1,575円(税込)

(本体1,500円)

四六判上製 288ページ

ISBN4-925253-11-5

http://www.10000nen.com/?p=566