頼山陽は、親不孝者だったのか、孝行息子だったのか?

こんにちは、木村耕一です。

歴史上の人物の、親子関係をみてみましょう。


江戸時代の有名な学者、頼山陽は、両親に心配ばかりかけていましたので、「親不孝者」と呼ばれていました。


しかし、晩年には、こんな詩を詠んでいます。

(原文)
五十の児 七十の母有り
此の福 人間 得ること応に難かるべし

(意訳)
50歳の私に、70歳の母が健在である。
こんな幸せは、世間でも、めったに得られるものではない。


はたして、不孝者だったのか、孝行息子だったのか?


父は広島藩の学者でした。
山陽は、18歳の時に江戸へ出て、勉学に励みましたが、わずか1年で中断し、帰郷します。病気が原因だったようです。
しかし、病が治ると、夜遊びにうつつをぬかし、親を悩ませます。


そして、大事件を引き起こします。
親戚へ届けるはずの香典を持ったまま、家出してしまったのです。
翌月、京都に隠れていることが分かりました。
当時、脱藩(藩士が無断で国外へ出ること)は死罪でしたから、両親の心痛は計り知れないものがありました。


父が、至急、京都へ向かい、広島へ連れ戻します。
「息子は狂人のため脱藩の罪を犯しました」と藩へ届け出て、自宅に座敷牢を作って監禁。しかも廃嫡するという非常手段を講じたのです。
父の、この敏速な対応で、山陽の命は救われました。


5年後に、罪が許されると、山陽は、父の友人の塾で講師になりますが、長続きせず、逃げ出してしまいます。
この後始末にも、両親が、どれだけ頭を下げたかしれません。


その後、友人の仲介で京都に私塾を開きます。
32歳にして、ようやく落ち着きを見せてきます。


37歳の時、「父、危篤」の報が入り、広島へ駆けつけますが、臨終に間に合いませんでした。
「なぜ、生前に、ご恩返しをしなかったのか」
後悔の念ばかりがわいてきます。


このことがきっかけになって、山陽は、これまでの親不孝を償いたいと、母に尽くすようになりました。


40歳の時、
「日本一の桜の名所・吉野山へ、母を案内したい」
と思い立ち、広島へ迎えに行きました。


京都に着いた母は、息子の塾が繁盛し、学者としても一人前になっていることを知り、大変喜びました。


京都見物したあと、母子は、さらに奈良の吉野山へと旅を続けます。
母が心から喜んでくれるので、山陽も楽しくてならず、
「母の満足そうな顔を見るのは、天下の宰相になったよりもうれしい」
と言っています。


この後も、度々、母と共に、吉野の桜見物へ出かけています。
心から母に仕える姿に、周囲は感動し、誰もが、山陽の孝行を称えるようになりました。


しかし、やがて山陽は、肺結核に冒されます。


(原文)
輿に侍して阪を下るに歩遅遅たり
鴬語花香別離を帯ぶ
母已に七十児は半百
此の山重ねて到るは定めて何れの時ぞ

(意訳)
母を乗せた輿に従って、ゆっくりと坂を下っていく。
ウグイスの声も、花の香りも、別れを惜しんでいるようだ。
母は、すでに70歳になった。子である私は50歳になった。
この美しい山に、今度はいつ、母と一緒に来ることができるだろうか。

この詩を詠んだ時には、自分の死期が近いことを感じていました。
病状が悪くなっても、広島の母に伝わることを、極度に恐れました。
自分の病の苦しみよりも、母に心配をかけるほうが、辛かったのです。


山陽は、年老いた母よりも先に、53歳で、この世を去りました。
息子に先立たれた母の悲しみは、次の歌にこめられています。


(原文)
かなしみの ただひとりなる 子におくれ
         かれぬ老木の 影ぞさびしき
(意訳)
まるで私は、広い野原に、ぽつんと立っている老木のようです。
この寂しさ、悲しさは、計り知れません。

最後に再び、親を泣かせた山陽は、やはり「親不孝者」でありました。


新装版 親のこころ

木村耕一編著

定価 980円(税込)

(本体933円)

四六判 192ページ

978-4-925253-51-2

http://www.10000nen.com/?p=2260


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