坂本竜馬と清河八郎。仲間から信用される人、見放される人の違い



こんにちは、木村耕一です。


ちょっと気をつけるだけで、人間関係も、仕事の成果も、大きく変わる、大事なポイントがあります。
それは、仲間との会話や、意見交換、他人を批評する時の心得です。
幕末の志士・坂本竜馬清河八郎の、正反対な生き様から学んでみましょう。


坂本竜馬は、NHK龍馬伝』にも描かれているように、人間関係を大切にしていました。
殺し合うほど憎み合っていた長州藩薩摩藩を仲直りさせ、日本の危機を救い、歴史を変えるほどの活躍をしました。


その反面、庄内出身の秀才・清河八郎は、「百才あって一誠足らず」という人物でした。
各地を遊説して倒幕を叫び、大勢を奮起させておきながら、肝心なところで挫折し、失敗を繰り返していました。
人から信頼されなかったのです


この違いは、どこにあるのでしょうか。
司馬遼太郎は、次のように分析しています。

清河は自分の欠点に気がついておらず、すべて世人の無自覚のせい、同志の懦弱(だじゃく)無能のせいにした。


清河は、卓抜すぎるほどの批評家で、同志の無能を憎み、相手の慎重を怯懦(きょうだ)とし、しかもそれを攻撃する論理、表現はアイクチのようにするどく、相手が参ったといってもやめず、つねにトドメを刺すところまで言及した。
のこるのは、恨みだけである。
よほど大事の瀬戸ぎわでないかぎり、座興の議論などに勝っても仕様がないものだと竜馬はおもっている。相手は決して負けたとはおもわず、名誉を奪われたとおもう。いつか別のかたちで復讐するだろう。
清河は酒間の議論でも不敵に冷笑しつつ、相手がくたばって死骸同然になるまで舌鋒をとどめなかった。


相手を説得する場合、はげしい言葉をつかってはならぬ、と竜馬はおもっている。清河なら、そういう言葉をつかう。結局は恨まれるだけで物事が成就できない。
(『竜馬がゆく』より)



事がうまくいかないと、すぐに他人のせいにする。
いつも、自分だけ正しい、というスタンスで話をする。
これでは、周囲から信用されるはずがありません。
しかも、一番の問題は、自分が高慢な態度をとっていることに、少しも本人が気づいていないことです。


清河は、口を開けば、誰かの言動を批評せずにおれないタイプでした。
頭がいいので、グズグズしている者を見ると、バカにみえるのでしょう。
鋭く指摘したり、強く責めたりするのが常でした。


本人は正しいことを言っているつもりかもしれません。
しかし、それは、イライラした自分の感情をコントロールできずにぶつけているにすぎません。
仮に、間違ったことを言っていないとしても、思いやりのない言い方は、相手を傷つけ、やる気を奪うだけです。
自信過剰の本人は気づいていませんが、皆から敬遠され、嫌われていきます。


現に、まもなく清河は、自分が信頼していた友人に裏切られ、自分が蔑んでいた連中に暗殺されてしまいました。


竜馬のように「皆の共通の目的に向かって、皆で力を合わせて進もう」という意識を強く持たねば、大目的を果たすことはできません。
たとえ意見が違う相手にも、思いやりの心を持って接しなければ、争いが起きるだけです。


坂本竜馬清河八郎の、話し方、接し方の違いは、今日の私たちにも、大きな教訓を与えてくれていると思います。