罪を免れた吉良は、何か得をしたのか──悪い行為は、必ず悪い結果を引き起こす。遅いか、早いかの違いだけである



こんにちは、木村耕一です。


引き続き、『まっすぐな生き方』から転載いたします。今日が最終回です。




忠臣蔵』のメッセージ6




では、罪を免れた吉良上野介は、何か得をしたのか。
「おとがめなし」と聞いた時は、ほっとしただろう。
しかし、それは人間の裁きである。
人間が、どう言おうが、因果の道理は曲げられない。
まいたタネは必ず生える。
それが善いタネ(行為)ならば善い結果、悪いタネ(行為)ならば悪い結果が、自分の身の上に現れるのだ。遅いか、早いかの違いだけである。


松の廊下の刃傷事件は、広く世間に知れ渡った。
上野介は、自分を悪者のように言う声が多いことに腹が立ち、「高家」を辞職。家督も孫の義周に譲り、自宅に引きこもるようになった。
そのうえ、「赤穂の浪人は、必ず、主君の敵を討つだろう」といううわさが、まことしやかに流れていた。世間じゅうが「吉良を、早く殺せ!」と叫び、芝居でも見るように、「まだか、まだか」と成り行きを楽しんでいるようにさえ感じる。これは、実に恐ろしい。上野介にしてみれば、いつ自宅に殺人鬼が刃物を振りかざして襲ってくるか分からない、という心境だ。
一時として、心の安まることのない日々が一年九カ月も続いた揚げ句、元禄15年(1702)12月14日の深夜、ついに47人の赤穂浪士が、屋敷へ向かったのである。
戦闘は2時間近くも続き、吉良方は17人が斬り殺され、20数人が負傷した。上野介は、がたがた震えて、台所の近くの炭部屋に隠れていた。しかし、明け方になって発見され、首を斬られたのである。
赤穂浪士は、数人が軽傷を負っただけで全員無事だった。上野介の白髪首を、槍の柄に結びつけ、意気揚々と隊列を組んで引き上げていく。
それを見て江戸の人々は、
「やった!」
「ついに、やってくれた!」
と拍手喝采し、赤穂浪士の快挙に沸き立ったという。
上野介にとっては、これほど残酷な最期はないだろう。まさに、自業自得というべきか。
それだけではない。
吉良家は、幕府の命によって取りつぶされた。赤穂浪士の襲撃を防げなかった責任を問われたのである。吉良家の当主・義周は流罪に処せられ、間もなく病死。浅野家に続いて吉良家も、断絶したのである。


吉良上野介は、「名君」でもあった


吉良上野介は、映画やドラマでは悪人の典型のように描かれているが、領地の三河(愛知県)では、必ずしもそうではない。
江戸城で、上野介が斬られたという知らせは、いち早く三河へ伝えられた。『新編忠臣蔵』(吉川英治著)には、領民が、驚きと悲しみで、上野介の容態を案じる場面がある。

「人は知らず、わしらが御領主は、わしらにとっては親のように思うているのじゃ。(中略)矢作平の水害を治せられたり、莫大な私財を投じて、鎧ヶ淵を埋め立てて良田と化し、黄金堤を築いて、渥美八千石の百姓を、凶作の憂いから救い、塩田の業をお奨めあそばすなど、どれほど、民の生活に、心を労せられたお方か知れぬのじゃ。その他、上野介様の御代になってからは、寺の荒れたるは繕い、他領のような苛税は課せず、貧しきには施し、梵鐘を鋳て久しく絶えていた時刻の鐘も村になるようになった程じゃ……」



このように、領民が上野介を慕う気持ちから生まれたのが、愛知県に江戸時代から続く民芸品「吉良の赤馬」であるという。上野介は、治水事業や新田開発に力を注ぎ、領内を巡回していた。その時に乗っていた赤毛の馬をかたどったものである。
世間じゅうが悪人と非難しようが、地元では、「赤馬」のいわれを語り継ぎ、今も、上野介を「名君」とたたえている。


「あんな悪いことをした吉良上野介には、悪い結果ばかり起きるはず」と決めつけるのは間違いである。善い行為があれば、それ相応の善い結果が現れて当然であろう。
反対に、世間じゅうから善人だ、りっぱな人だといわれている人でも、もし人知れず悪い行為があれば、やがて、それ相応の悪い結果が現れるはずだ。
因果応報である。
一つ一つの行為に応じて、善、悪、それぞれの結果が、寸分の狂いもなく、私たちの身の上に起きるのである。


果たして、自分の未来は、明るいのか、暗いのか。
それは、今日1日、どういう心掛けで過ごすかで、大きく変わってくる。
幸せをつかむには、少しでも悪を慎み、善いことをしようと努力していくことが大切である。



まっすぐな生き方
木村耕一著
定価 1,575円(税込)
(本体1,500円)
四六判上製 296ページ
ISBN978-4-925253-41-3
1万年堂出版発行
http://www.10000nen.com/?p=574