「古典の楽しさ、生きるヒント」を発信するnoteを開設しました。
いつか読みたかった、古典の名著との出会いが、毎日の生活に彩りを与えてくれます。
夢を叶えたい、人間関係に悩んでいる、トラブルをどう乗り切るか、何をしたら満足できるのか、などの悩みは、今も昔も変わらないようです。
先達はその時どうしたのか。
古典や歴史上の人物のエピソードをとおして、生きるヒントをお届けしていきたいと思います。
日本各地のゆかりの地を旅して撮影した写真も掲載していきます。
ぜひ、下記からごらんください。
「古典の楽しさ、生きるヒント」を発信するnoteを開設しました。
いつか読みたかった、古典の名著との出会いが、毎日の生活に彩りを与えてくれます。
夢を叶えたい、人間関係に悩んでいる、トラブルをどう乗り切るか、何をしたら満足できるのか、などの悩みは、今も昔も変わらないようです。
先達はその時どうしたのか。
古典や歴史上の人物のエピソードをとおして、生きるヒントをお届けしていきたいと思います。
日本各地のゆかりの地を旅して撮影した写真も掲載していきます。
ぜひ、下記からごらんください。
私たちは、どうすれば幸せになれるのでしょうか。
この謎を解くには、まず、私たちの住んでいる世界は、どんなところなのかを、よく見つめる必要があります。
鴨長明の『方丈記』に、京都に起こった災害を例にして具体的に記されていますので、意訳してみましょう。(『月刊 なぜ生きる』令和6年3月号に掲載。イラストは黒澤葵さん)
◆都の三分の一が焼失した大火災
宝石を敷き詰めたような美しい町、それが京都です。ここが都に定められてから、人々は競い合うように立派な住まいを築いてきました。
ところが、私(鴨長明)が都で暮らしている間に、「まさか!」と叫びたくなるような想定外の災害に、何度も見舞われたのです。
あれは、安元三年(一一七七)四月二十八日のことだったでしょうか。風が激しく吹いて、ガタガタと物音が鳴りやまず、落ち着かない夜でした。折悪く都の東南で発生した火災が、強風にあおられて、西北へ向かってどんどん広がっていったのです。
民家だけではなく、国家の威信をかけて造った巨大な建物も、たった一夜で灰になってしまいました。
火元は旅人を泊める粗末な仮屋だったようです。小さな火の不始末が、吹き荒れる風によって、ほうぼうへ飛び火したのでした。
夜空は一面、真っ赤に輝き、恐ろしく勢いを増した炎は、風で吹きちぎられ、空を数百メートルも飛んで別の家を次々に燃やしていったのです。
こんな炎に襲われては、誰も生きた心地がしません。
ある人は、煙で息を詰まらせ倒れていきました。
ある人は、炎で気を失い焼け死んでいきました。
命からがら逃げ出した人は、家の中から財宝を運び出す余裕など、全くありません。生涯かけて蓄えた宝がすべて灰になってしまったのです。
この大火災で、都の三分の一が焼失したといわれます。
いくら一生懸命に頑張っても、報われないことが多いのが、この世の中です。まるで、水面に浮かんだ泡がぱっと消えてしまってから、「儚いなあ」「愚かだったなあ」と知らされるものばかりではないでしょうか。
人が多く集まる所は、当然ながら火災の危険が高まります。そんな危うい場所に家を建てようとして、一生をかけてためたお金をつぎ込み、苦労に苦労を重ね、神経をすり減らしています。それは、とても愚かなことではないでしょうか。
◆建物を破壊した巨大な竜巻
また、大火から三年後には、巨大な竜巻が京の都を襲いました。
猛烈な旋風を伴った竜巻は、北から南へ約二キロメートルにわたって吹き抜けました。進路上の建物は、大きかろうが、小さかろうが、一つとして破壊されないものはありませんでした。
ペシャンコにつぶれた家。
屋根と壁が吹き飛ばされ、柱だけになった家。
隣との境界に頑丈な土塀を築いていたのに、跡形もなく粉砕された家もありました。
まして、家の中にあった財宝は一つ残らず大空へ運ばれ、帰ってきません。
板切れが枯れ葉が舞うように乱れ飛び、チリが煙のように高く吹き上げられるので、目も開けておれませんでした。
激しい風と同時に、ものすごい雷鳴がとどろくので、人の声も聞こえません。大焦熱地獄には恐ろしい業風が吹き荒れていると、源信僧都の『往生要集』に記されていますが、まさに、地獄の風が、この世に吹いたとしか思えませんでした。
竜巻の被害は、家屋の倒壊だけではありません。壊れた家を修理する時に、けがをして体に障害を負った人が、どれだけあるか分からないほどです。
このように、竜巻は多くの人を悲嘆のどん底に落としながら、南西の方向へ去っていったのでした。
天災だから、やむをえないとも言っておれません。裏切られても、裏切られても、また同じことを繰り返して泣いている私たちに、「それでいいのか」「何のために生きているのか」と、問いかけているようにしか思えないのです。
◆大飢饉と、伝染病の猛威
都を竜巻が襲った翌年のことだったと思います。
春、夏と日照りが続き、秋には台風や洪水に襲われ、稲や麦などの農作物が、ほとんど実りませんでした。
京都には多くの人が住んでいます。その生活は、ほとんど、地方から供給される食糧や物資によって成り立っていました。ところが、この飢饉で、食糧が都へ入ってこなくなったのです。
そうなると、どんな立派な家を構えている人でも、体裁を取り繕ってはおれなくなりました。皆、家の中の財宝を、捨てるように売り払い、食べ物と交換し始めたのです。
しかし、そんな宝物を欲しがる者は、一人もいません。たまたま物々交換に応じる者があっても、財宝を格段に安くし、米や粟を宝石以上に高く扱うのです。
食べ物を求めてさまよう人が、道にあふれていきます。嘆き、悲しむ声ばかりが、あちこちから聞こえてくるようになりました。
次の年こそ、よくなるだろうと期待していましたが、飢饉が続いただけでなく、伝染病が蔓延し、ますます悲惨な状況になっていきました。
ある人が、道端に捨てられている餓死者の数を調べたところ、四月、五月の二カ月間で、都の一部だけでも四万二千三百人に達したといいます。まして、飢饉が始まってから二年間の、都や地方の犠牲者の数をすべて加えると、ものすごい数になるでしょう。
ふだんは「ありえない」と思うことが、いつ、現実に、起こるか分かりません。それが、私たちが生きている世界なのです。
◆地震こそ、最も恐ろしい災害
さらに、大飢饉から数年後に、ものすごい大地震がありました。それは、これまでの地震とは全く違っていたのです。山は崩れて川を埋め、海は傾いて津波が発生したのです。大地は裂けて水が湧き出し、岩は割れて谷底に転げ落ちました。海岸近くを漕ぐ船は波に翻弄され、道を行く馬は足元がふらついて走れませんした。
京都の近郊では、あちらでも、こちらでも、寺院のすべてが被害を受けました。あるものは崩れ、あるものは倒れてしまいました。
チリや灰が空へ立ち上って、もうもうとした煙のようでした。
大地が揺れ、家が破壊される音は、雷鳴と全く同じでした。
家の中にいると、たちまち押しつぶされそうになります。外へ走って出ると、地面が割れ、裂けているではありませんか。
恐ろしいものの中でも、最も恐ろしいのは、全く、この地震なのだと、はっきり知らされました。
このような激しい大地の揺れは、しばらくして止まりましたが、その余震は、当分、絶えることがなかったのです。
ふだんなら、びっくりするほどの地震が二、三十回も起こる日が続きました。そして、本震から十日、二十日と過ぎていくと、だんだん間隔が空いてきて、一日に四、五回か、二、三回、もしくは一日おき、二、三日に一回というように減っていきました。それでも、三カ月ほど余震が続きました。
大地震が起こった直後は、人々は皆、「どんな豪華な家も、地震が来たら、ひとたまりもない」「この世は、無常だな」と言っていました。しかし、月日が経過するにつれて、地震があったことさえ、言葉に出して言う人がいなくなってしまいました。
あれほど悲惨な目に遭いながら、すぐに忘れてしまい、何もなかったかのように、また同じことを繰り返しているのです。
鴨長明が、明らかにした「私たちが住んでいる世界」を、古典『歎異抄』は、さらに、次のように言及しています。
(原文)
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もってそらごと・たわごと・真実あることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします (『歎異抄』)
(意訳)
火宅(火のついた家)のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとであり、まことは一つもない。ただ弥陀の本願念仏のみがまことなのだ。
月刊誌の連載「歎異抄の旅」は、7月号から、滋賀県へ向かいます。
海のように広い琵琶湖に沿って車を走らせると、場所によって水面の色が変わります。深い群青色になったり、濃い緑になったり、日光を反射して鏡のように輝いたり……。琵琶湖は、とても魅力的です。
「われは湖の子 さすらいの旅にしあれば しみじみと……」
美しい琵琶湖の自然を歌った「琵琶湖周航の歌」が浮かんできます。この歌は、大正6年に誕生してから、100年以上も歌い継がれています。フランク永井さん、都はるみさん、小林旭さん、渡哲也さん、倍賞千恵子さんなど、数多くの歌手によってカバーされてきました。中でも昭和46年に、加藤登紀子さんが歌ったレコードは70万枚の大ヒットを記録しています。まず、「琵琶湖周航の歌」のいわれから調べてみました。
(試し読みは下記から)
https://nazeikiru-web.com/sample/tabi2207/